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最初が肝心どころか、それまで寺で僧侶になる修行をしていた実戦経験のない14~15歳の少年が瞬く間に越後を平定してしまったから、家臣達が腰をぬかすほど驚いたのでないかと思う。謙信は特異な性格の武将で、通常は最前線からかなり後方に陣を構え、そこから全軍の指揮をするのだが、彼は常に騎乗し、各部隊を間を駆け巡り細かい適格な指示を与えた。時には軍勢の先頭にたって戦うことも平気でやる。これでは自軍の将兵の士気は嫌でも上がる。この戦法は戦況が絶えず変化する野戦では驚異的な威力を発揮するが、数万以上の大軍勢をひきいたり、城攻めには向かない。謙信が常に敵より寡兵で戦い勝利していたのはそのためだ。逆に小田原攻めなど大軍勢を味方にした場合は失敗している。
郷土の英雄です!
謙信公のお膝元の方でしょうか。以前、私をヘッドハントして下さったのが謙信公のご家来衆の末裔でした。重役にも関わらず最前線で額に汗して仕事をする方でした。結果成果が及ばなかった部下には「君はあんなに頑張ったじやないですか。」とねぎらい、他人の手柄を横取りする部下には容赦ありませんでした。謙信公の教えは今も生きていると思えました。長文失礼いたしました。
謙信は好きな武将の一人なんで、放送楽しみにしています
上杉謙信さんと同じ日本に生まれてこられたことが本当に有り難く思います。
今回の成功の教訓は、営業や面接等での第一印象の大切につながってとっても大切だと再認識しました。また、キュウちゃんのお話の関連で、再就職や配置転換で、新しい仕事に対して、失敗を糧に積極的に取り組む大切さを学びました。また、上杉謙信の失敗からの教訓には、とっても興味があります。
上杉謙信回の教授陣の顔ぶれが、おもしろそうで楽しみです!💞😀
信玄の目的は、謙信の領土である直江津等の日本海ルート。日本海ルートで京都へ行く事が、信玄の悲願だった。その為に12年も謙信と戦う事になる。しかし、越後を征服するどころか、真田の力を借りて川中島まで攻めるのが精一杯だった。謙信があまりにも強すぎた。そして、日本海ルートは諦めて、西ルートに方針転換する事になる。しかし、年をとり道半ばで信玄は病死してしまう。総合的に考えると、謙信と信玄の戦いは、戦術的にも戦略的にも謙信の圧勝というのが、当方の見立て。
まあ、アレですよね。言い方悪いが、一種の戦バカに引っかかってしまった信玄の不運とも言えるかも苦笑最終目的がそこには無い信玄からすれば歯痒かったと思います。結果的にこの化け物2人が信濃でやり合って消耗する中、信長が全取りする形になりますし…。歴史ってドラマチックですよね〜。いや、両方とも好きですけどね。
「最初が肝心」。意味深い言葉です。評価する側が評価される側より優れていると思うのは、多くの場合において錯覚です。従って、全てを見通した正しい評価など、中々期待できません。最初にガツンと結果を出せば、評価者はそれに頼って高い評価を下しがちなのか世の通性です。真価を持たなければやがては化けの皮も剥がれることでしょうが、より正しく評価を受けるためには、最初が肝心なのかもしれません。
一昔前までは創作と言われてた川中島合戦で信玄の本陣に突っ込んで一騎打ちした話最近では本当だった可能性が高い事が分かってきましたね
謙信は常に前線を騎馬で駆け巡り兵卒を指揮し、時には先頭にたって突撃するもする。つまり信玄との一騎打ちもやりかねない。しかし床几にかけた信玄が木製の軍配で、謙信の斬撃をさけられたとはとても思えない。あれは後世のつくり話だろうが、信玄がこの戦いで傷を負ったのは事実である。
@@crowold3025 様信玄の持っていた軍配は鉄製ではないかと。
@@しばたしげいえ 我が家には20cmくらいの鋳鉄製のフライパンがありまするが、2kgくらいあります。軍配となるとその倍以上はあると思います。手にしているだけで重たくてそれを振り上げたりするのは、さすがの信玄でもイヤになるのでは? しかし、場所は忘れましたが、とある神社で信玄が使用したという鉄製の大きな軍配がTVで放映されたのを見た記憶があります。真偽はともかく・・・。
まじでSFの世界の人間。超常現象と言われるのも頷ける
この謙信こそが本物だ!
信玄の謙信に対する評価「太刀(合戦)においては日本無双の名大将」
敗北の瞬間は、謙信自身の急死若しくは御館の乱と思っていたので意外でした。。。越相同盟は、新田次郎が代表作「武田信玄」で散々にこき下ろしていましたのが印象的です。この人ほど、敗北からの教訓が相応しい偉人いないかもしれません。特に酒の飲み過ぎで体と心を病んでしまった。。。
あぶ刑事の柴田恭兵が演じた謙信ハマり役だったな
上杉謙信の人生の中で最大の勝利は1553年と1559年の2回に及ぶ京都上洛でしょう。一回目は後奈良天皇や本願寺・高野山・大徳寺等にまいり、二回目の上洛では正親町天皇や関白近衛前久や将軍足利義輝と会見し、幕府管領の待遇や関東管領の就任許可の特権を与えられて室町幕府の再興が実現出来るのかという事でしょうね。京都なら織田信長の方が近かったし、関東管領に就任した事により武田氏と北条氏に必要以上にマークされ両氏と手を組んだ北陸一向一揆とも対決するようになり八方塞がりになった事は不運でした。 それが解消されるのは、1575年に長篠合戦で武田氏が敗北し沈静化し北陸一向一揆=本願寺とも和睦が成立して上洛の気運が高まるまで15年もの空白期間が出来たのが敗北の原因です。
個人的には上杉謙信は西に向かうのが遅かった気がします。
景虎は少年時代にアッというまに混乱する越後を平定してしまった。これには家臣団のほうが驚いてしまい、彼を軍神のようにして家督をつがせた。しかし戦では天才であっても14~15歳の少年なので、実際は老練な家臣たちの言うがままだったのではないだろうか。彼がようやく関東に向け出陣できるようになったのは30歳すぎてからである。彼は信長と違い中世的な価値観の持ち主なので、京には20代のころから上京していたが、信玄や信長のような天下統一の野心はなかった。彼が京にいったのは、将軍家の秩序を取り戻す事と、彼自身が僧侶となる目的のためだ。さすがに僧侶は家臣達が大慌てで止めにはいり事なきにいたった。それは決して謙信の芝居じみた行動ではなく、本気で高野山で僧侶になりたかったようだ。
上杉謙信、ジョージ.S.パットン、エルヴィン・ロンメル、ハンニバルにはある種の共通点を感じます。全員、有能な「戦術家」しかし、戦略という観点から見た場合に「共通の齟齬がある」と私は思います。如何でしょうか?
武田ファンは高確率で上杉をリスペクトしてるし、上杉ファンは高確率で武田をリスペクトしてる
謙信の最大の失敗は後継者を決めずに急死してしまった事。
まさかトイレで死ぬなんて本人も思ってなかっただろうしな
個人的には関東に介入したことは最大の失敗だった気がする。それだけで何年無駄にしたことか。
@@user-huhin越後・長尾家の当主だった長尾景虎公(後の上杉謙信公)は、小田原北条氏から関東を追われ、越後へ落ち延びて来た(山内)上杉憲政公の養子となって、(山内)上杉政虎となり、(山内)上杉家の家督と関東管領職を憲政公から譲られたので、関東に関わらない訳にはいかなかったのです。
@@カメイドイチロー 憲正庇護して小田原まで侵攻。晴信が攻めて来たから3日で即撤退。いくら大義名分があっても結果として関東管領職を手に入れただけになったからねぇ。その時間に越中、加賀、能登まで侵攻できていればもっと速く信長包囲網に参加できたと思う。まぁ机上の空論。どれが正解かなんて分からない。
謙信は権謀術策と義のために働く猛将です。自らも前線で戦います・権謀術策と義は相反する気質です。二つの気質の葛藤で悩み抜いた人生でした、行動も決めたら一直線。義の気質は幕末に活躍した高杉晋作・桂小五郎・大村益次郎・東郷平八郎などと同じ気質です。ただし彼らには義の他戦略脳をも持ち合わせていました。残念ながら謙信にはこの戦略脳が欠るのです。同盟を結んでも関東の平穏のみの同盟で、天下を目指すものではありませんでした。天下への視野はなかったのでしょう。足利家で天下を治めるなどで戦国の世が治まるはずもありません。また領国の場所が不運でした。謙信と同じ行動気質で権謀術策に優れた信玄・氏康がいたのですから。同じ気質同士の戦いはなかなか決着がつきません。消耗戦になることが多い。信長が亡くなったので助かったのです。信長・秀吉・家康・利家といった戦略脳を持つ集団に立ち向かっても、いずれは敗北となったでしょう。
天下や領地拡大に興味がなかったというのはでたらめだと思います。信玄・氏康・信長と互角に戦うには野望や欲は不可欠。
欲があるなら下手に関東、信濃、北陸に戦線を広げないと思う。
それに、上杉謙信公は、時の将軍・足利義輝公からの要請に応じて、上洛してますね。
関東の覇権をめぐる政争において、上杉が北条氏に敗北してしまったのは必然だった印象。越相同盟を結ばされた時点で敗北していたと思う。
逆に言えば武田信玄が今川氏を駿河から追放して北条氏と武田信玄が対決するようになり、信玄も徳川家康と対決し家康は上杉謙信と反武田の同盟を結んだりして軍事的負担は少なくなったというメリットもあります。越相同盟の時期は織田信長は将軍足利義昭を支えてて信長と謙信は友好関係を築いていたし、徳川家康や北条氏に武田信玄の牽制役を任せて謙信自身は武田氏と組む越中国衆の椎名康胤や一向一揆との戦いに集中出来てるので悪い事ばかりではないです。 謙信自身、他の有力者が将軍を支えていれば最低限安心できるので室町幕府が安泰ならば自分は天下の政治に首を突っ込まなくともよいと考えていたと思います。
上記の事から1560年から67年まで関東(北条)信濃(武田)北陸(一向一揆)と三方面にわたって出兵する負担がなくなって安定感のある生活が出来たと考えます。
謙信は、実際には女性だったという説が有力視されておりますね。今回もありがとうございました。面白かったです。
有力視なんてものではなくあくまでもヨタ話にすぎないかと
@@グリーンアイ-q5l 謙信が使用していたとして残されている服が女性っぽい柄の物だとか、何個かのきちんとした根拠があるみたいな話だったので、勘違いしておりました。申し訳ありませんでした。
@@ともきともき それに謙信が女なら兄貴が当主だったのに引退させてまでわざわざ当主にならんでしょうし周りもそんな事させませんよ
@@もふもふ-x4p すみません、謙信は女性だった可能性が高いと語っているユーチューバーがいましたので、勘違いしました。申し訳ありませんでした。
昔そういうエロゲあったな
援軍要請があればその背景や経緯を探索せず「義のためである」と称して戦闘に出る。特に北信濃の村上や小笠原から言われて本拠地・春日山から近い川中島に進出したが、直ぐに兵を引く。この動きを見れば大局観が無く現代流に言えば「正義漢を装う戦争気狂い」であり、このような相手をせざるを得なかった信玄公にとって迷惑であったと思う。
だから武田信玄も北条氏との同盟をより深化させて上杉謙信の関東進攻を阻んだり北陸一向一揆とも手を組んだりして三方面から攻撃を加える等謙信の力を恐れていた訳です。
この絵はひどい!
関東を荒らしては帰宅を繰り返した男
越相同盟が成立した1569年頃から北条氏や徳川氏や織田氏と同盟を組んだりして遠交近攻政策を実施してからは闇雲に出兵しなくなってくるんだけどね。
戦国武将などの名前が 替わるのは…仮面ライダー…の 変身! みたいな・・。関西人の私から言うと 吉本新喜劇の池のめだか の ような『俺が ネクタイ 外したら… どうなるんか…わかっとるんか!』 背丈 と 同じ…。の様な。異常な奴が多くて、今で言うと『心神耗弱で責任能力が無い…』連中が多かった とも思う。
沒有中文翻譯是最大敗筆
最初が肝心どころか、それまで寺で僧侶になる修行をしていた実戦経験のない14~15歳の少年が瞬く間に越後を平定してしまったから、家臣達が腰をぬかすほど驚いたのでないかと思う。謙信は特異な性格の武将で、通常は最前線からかなり後方に陣を構え、そこから全軍の指揮をするのだが、彼は常に騎乗し、各部隊を間を駆け巡り細かい適格な指示を与えた。時には軍勢の先頭にたって戦うことも平気でやる。これでは自軍の将兵の士気は嫌でも上がる。この戦法は戦況が絶えず変化する野戦では驚異的な威力を発揮するが、数万以上の大軍勢をひきいたり、城攻めには向かない。謙信が常に敵より寡兵で戦い勝利していたのはそのためだ。逆に小田原攻めなど大軍勢を味方にした場合は失敗している。
郷土の英雄です!
謙信公のお膝元の方でしょうか。
以前、私をヘッドハントして下さったのが謙信公のご家来衆の末裔でした。重役にも関わらず最前線で額に汗して仕事をする方でした。
結果成果が及ばなかった部下には
「君はあんなに頑張ったじやないですか。」とねぎらい、他人の手柄を横取りする部下には容赦ありませんでした。
謙信公の教えは今も生きていると思えました。
長文失礼いたしました。
謙信は好きな武将の一人なんで、放送楽しみにしています
上杉謙信さんと
同じ日本に生まれて
こられたことが
本当に有り難く思います。
今回の成功の教訓は、営業や面接等での第一印象の大切につながってとっても大切だと再認識しました。
また、キュウちゃんのお話の関連で、再就職や配置転換で、新しい仕事に対して、失敗を糧に積極的に取り組む大切さを学びました。
また、上杉謙信の失敗からの教訓には、とっても興味があります。
上杉謙信回の教授陣の顔ぶれが、おもしろそうで楽しみです!💞😀
信玄の目的は、謙信の領土である直江津等の日本海ルート。
日本海ルートで京都へ行く事が、信玄の悲願だった。その為に12年も謙信と戦う事になる。
しかし、越後を征服するどころか、真田の力を借りて川中島まで攻めるのが精一杯だった。
謙信があまりにも強すぎた。
そして、日本海ルートは諦めて、西ルートに方針転換する事になる。しかし、年をとり道半ばで信玄は病死してしまう。
総合的に考えると、謙信と信玄の戦いは、戦術的にも戦略的にも謙信の圧勝というのが、当方の見立て。
まあ、アレですよね。
言い方悪いが、一種の戦バカに引っかかってしまった信玄の不運とも言えるかも苦笑
最終目的がそこには無い信玄からすれば歯痒かったと思います。
結果的にこの化け物2人が信濃でやり合って消耗する中、信長が全取りする形になりますし…。
歴史ってドラマチックですよね〜。
いや、両方とも好きですけどね。
「最初が肝心」。意味深い言葉です。
評価する側が評価される側より優れていると思うのは、多くの場合において錯覚です。
従って、全てを見通した正しい評価など、中々期待できません。
最初にガツンと結果を出せば、評価者はそれに頼って高い評価を下しがちなのか世の通性です。
真価を持たなければやがては化けの皮も剥がれることでしょうが、
より正しく評価を受けるためには、最初が肝心なのかもしれません。
一昔前までは創作と言われてた
川中島合戦で信玄の本陣に突っ込んで一騎打ちした話
最近では本当だった可能性が高い事が分かってきましたね
謙信は常に前線を騎馬で駆け巡り兵卒を指揮し、時には先頭にたって突撃するもする。つまり信玄との一騎打ちもやりかねない。しかし床几にかけた信玄が木製の軍配で、謙信の斬撃をさけられたとはとても思えない。あれは後世のつくり話だろうが、信玄がこの戦いで傷を負ったのは事実である。
@@crowold3025 様
信玄の持っていた軍配は鉄製ではないかと。
@@しばたしげいえ 我が家には20cmくらいの鋳鉄製のフライパンがありまするが、2kgくらいあります。軍配となるとその倍以上はあると思います。手にしているだけで重たくてそれを振り上げたりするのは、さすがの信玄でもイヤになるのでは? しかし、場所は忘れましたが、とある神社で信玄が使用したという鉄製の大きな軍配がTVで放映されたのを見た記憶があります。真偽はともかく・・・。
まじでSFの世界の人間。
超常現象と言われるのも頷ける
この謙信こそが本物だ!
信玄の謙信に対する評価
「太刀(合戦)においては日本無双の名大将」
敗北の瞬間は、謙信自身の急死若しくは御館の乱と思っていたので意外でした。。。
越相同盟は、新田次郎が代表作「武田信玄」で散々にこき下ろしていましたのが印象的です。
この人ほど、敗北からの教訓が相応しい偉人いないかもしれません。
特に酒の飲み過ぎで体と心を病んでしまった。。。
あぶ刑事の柴田恭兵が演じた謙信ハマり役だったな
上杉謙信の人生の中で最大の勝利は1553年と1559年の2回に及ぶ京都上洛でしょう。一回目は後奈良天皇や本願寺・高野山・大徳寺等にまいり、二回目の上洛では正親町天皇や関白近衛前久や将軍足利義輝と会見し、幕府管領の待遇や関東管領の就任許可の特権を与えられて室町幕府の再興が実現出来るのかという事でしょうね。
京都なら織田信長の方が近かったし、関東管領に就任した事により武田氏と北条氏に必要以上にマークされ両氏と手を組んだ北陸一向一揆とも対決するようになり八方塞がりになった事は不運でした。
それが解消されるのは、1575年に長篠合戦で武田氏が敗北し沈静化し北陸一向一揆=本願寺とも和睦が成立して上洛の気運が高まるまで15年もの空白期間が出来たのが敗北の原因です。
個人的には上杉謙信は西に向かうのが遅かった気がします。
景虎は少年時代にアッというまに混乱する越後を平定してしまった。これには家臣団のほうが驚いてしまい、彼を軍神のようにして家督をつがせた。しかし戦では天才であっても14~15歳の少年なので、実際は老練な家臣たちの言うがままだったのではないだろうか。彼がようやく関東に向け出陣できるようになったのは30歳すぎてからである。彼は信長と違い中世的な価値観の持ち主なので、京には20代のころから上京していたが、信玄や信長のような天下統一の野心はなかった。彼が京にいったのは、将軍家の秩序を取り戻す事と、彼自身が僧侶となる目的のためだ。さすがに僧侶は家臣達が大慌てで止めにはいり事なきにいたった。それは決して謙信の芝居じみた行動ではなく、本気で高野山で僧侶になりたかったようだ。
上杉謙信、ジョージ.S.パットン、エルヴィン・ロンメル、ハンニバルにはある種の共通点を感じます。全員、有能な「戦術家」しかし、戦略という観点から見た場合に「共通の齟齬がある」と私は思います。如何でしょうか?
武田ファンは高確率で上杉をリスペクトしてるし、上杉ファンは高確率で武田をリスペクトしてる
謙信の最大の失敗は後継者を決めずに急死してしまった事。
まさかトイレで死ぬなんて本人も思ってなかっただろうしな
個人的には関東に介入したことは最大の失敗だった気がする。
それだけで何年無駄にしたことか。
@@user-huhin
越後・長尾家の当主だった長尾景虎公(後の上杉謙信公)は、小田原北条氏から関東を追われ、越後へ落ち延びて来た(山内)上杉憲政公の養子となって、(山内)上杉政虎となり、(山内)上杉家の家督と関東管領職を憲政公から譲られたので、関東に関わらない訳にはいかなかったのです。
@@カメイドイチロー 憲正庇護して小田原まで侵攻。晴信が攻めて来たから3日で即撤退。いくら大義名分があっても結果として関東管領職を手に入れただけになったからねぇ。
その時間に越中、加賀、能登まで侵攻できていればもっと速く信長包囲網に参加できたと思う。
まぁ机上の空論。どれが正解かなんて分からない。
謙信は権謀術策と義のために働く猛将です。自らも前線で戦います・
権謀術策と義は相反する気質です。二つの気質の葛藤で悩み抜いた人生でした、
行動も決めたら一直線。
義の気質は幕末に活躍した高杉晋作・桂小五郎・大村益次郎・東郷平八郎など
と同じ気質です。ただし彼らには義の他戦略脳をも持ち合わせていました。
残念ながら謙信にはこの戦略脳が欠るのです。
同盟を結んでも関東の平穏のみの同盟で、天下を目指すものではありません
でした。天下への視野はなかったのでしょう。
足利家で天下を治めるなどで戦国の世が治まるはずもありません。
また領国の場所が不運でした。謙信と同じ行動気質で権謀術策に優れた信玄・
氏康がいたのですから。同じ気質同士の戦いはなかなか決着がつきません。
消耗戦になることが多い。
信長が亡くなったので助かったのです。
信長・秀吉・家康・利家といった戦略脳を持つ集団に立ち向かっても、いずれ
は敗北となったでしょう。
天下や領地拡大に興味がなかったというのはでたらめだと思います。信玄・氏康・信長と互角に戦うには野望や欲は不可欠。
欲があるなら下手に関東、信濃、北陸に戦線を広げないと思う。
それに、上杉謙信公は、時の将軍・足利義輝公からの要請に応じて、上洛してますね。
関東の覇権をめぐる政争において、上杉が北条氏に敗北してしまったのは必然だった印象。
越相同盟を結ばされた時点で敗北していたと思う。
逆に言えば武田信玄が今川氏を駿河から追放して北条氏と武田信玄が対決するようになり、信玄も徳川家康と対決し家康は上杉謙信と反武田の同盟を結んだりして軍事的負担は少なくなったというメリットもあります。
越相同盟の時期は織田信長は将軍足利義昭を支えてて信長と謙信は友好関係を築いていたし、徳川家康や北条氏に武田信玄の牽制役を任せて謙信自身は武田氏と組む越中国衆の椎名康胤や一向一揆との戦いに集中出来てるので悪い事ばかりではないです。
謙信自身、他の有力者が将軍を支えていれば最低限安心できるので室町幕府が安泰ならば自分は天下の政治に首を突っ込まなくともよいと考えていたと思います。
上記の事から1560年から67年まで関東(北条)信濃(武田)北陸(一向一揆)と三方面にわたって出兵する負担がなくなって安定感のある生活が出来たと考えます。
謙信は、実際には女性だったという説が有力視されておりますね。今回もありがとうございました。面白かったです。
有力視なんてものではなくあくまでもヨタ話にすぎないかと
@@グリーンアイ-q5l 謙信が使用していたとして残されている服が女性っぽい柄の物だとか、何個かのきちんとした根拠があるみたいな話だったので、勘違いしておりました。申し訳ありませんでした。
@@ともきともき
それに謙信が女なら兄貴が当主だったのに
引退させてまでわざわざ当主にならんでしょうし
周りもそんな事させませんよ
@@もふもふ-x4p すみません、謙信は女性だった可能性が高いと語っているユーチューバーがいましたので、勘違いしました。申し訳ありませんでした。
昔そういうエロゲあったな
援軍要請があればその背景や経緯を探索せず「義のためである」と称して戦闘に出る。特に北信濃の村上や小笠原から言われて本拠地・春日山から近い川中島に進出したが、直ぐに兵を引く。この動きを見れば大局観が無く現代流に言えば「正義漢を装う戦争気狂い」であり、このような相手をせざるを得なかった信玄公にとって迷惑であったと思う。
だから武田信玄も北条氏との同盟をより深化させて上杉謙信の関東進攻を阻んだり北陸一向一揆とも手を組んだりして三方面から攻撃を加える等謙信の力を恐れていた訳です。
この絵はひどい!
関東を荒らしては帰宅を繰り返した男
越相同盟が成立した1569年頃から北条氏や徳川氏や織田氏と同盟を組んだりして遠交近攻政策を実施してからは闇雲に出兵しなくなってくるんだけどね。
戦国武将などの名前が 替わるのは…仮面ライダー…の 変身! みたいな
・・。関西人の私から言うと 吉本新喜劇の
池のめだか の ような
『俺が ネクタイ 外したら… どうなるんか…
わかっとるんか!』
背丈 と 同じ…。
の様な。異常な奴が多くて、今で言うと
『心神耗弱で責任能力が無い…』連中が多かった とも思う。
沒有中文翻譯是最大敗筆